2024/04/03

パリの空の下、バラ色の人生
épisode 7_ ESMOD JAPON

連載 Ma vie en rose sous le ciel de Paris

TEXT / SUU
ILLUST / MADOKA

北欧でのマリメッコへの夢が閉ざされ、失意のまま帰国したみどりさん。
気を取り直して、すぐに次の夢を見つけます。それは内装デザイナー。みどりさんは知り合いの建築家のお手伝いを始めます。

そんな中、パリでT子さんの旦那様が活動するソフトボールチームの繋がりで出会った”ニノさん”から連絡があります。
みどりさんは、空手黒帯のニノさんが「いつかは日本で学校をはじめたい」と言っていたのは覚えていましたが、それは空手の学校のことと思い込んでいました。
するとニノさんは言います。「エスモードの日本校 “ESMOD JAPON” を作るんだ!」と。びっくりです。
ついてはエスモード ジャポンからパリ校へ留学希望する学生のために、旅行会社勤務経験もあるみどりさんにアドバイザーをやってもらえないかと。

エスモード ジャポンの立ち上げのお手伝いを少しだけすることにしたみどりさんは、学校の案内セミナーの仕事から始まります。

ESMOD JAPON の始まり

ただ始めてみるとびっくりすることばかり。先ず教室がない…。メソッドもない…。生徒を集めるのに学校のパンフレットすらない…。
あるのは、ニノさんの饒舌な口だけ。というスタートです。

それでも、an・anなどの雑誌に宣伝しまくり、学校説明会にはファッション系の仕事をする親たちが「文化服装やドレメじゃない学校はないかな?」と、子供を連れて集まりました。

親たちは校舎もなければもちろん教室もないという、いわば何も実態がないという事実に怪しさしか感じていません…そりゃそうだ。
そこで口達者なニノさん。説明会の参加者は親が大半とみるとこう話します。「これからは日本もファッションが経済を盛り上げてゆく!!」と。
具体的な数字を交えて力説するニノさんに、怪しんでいた親達はだんだんニコニコしてきます。
「だからエスモードが必要なんだ!」「これからはクリエーションなんだ!」「デザイナーのデザインを変えるようなパタンナーも必要だ!」
ニノさんのプレゼン能力が「ニノ教」と言われるようになったのはここからかも知れません…。
そして「ニノ教」は経営面でも力を発揮します。新しく学校を作るわけですから、大変なことだったでしょう。

1984年 エル・ジャポンに掲載された広告。奇抜なビジュアルです。
華やかな面々。

学校は始まりましたが、未だ校舎が出来ていません。
授業は原宿駅前のアッシュビルでスタートします。今のアッシュビルはとても綺麗で瀟洒なビルですが、当時のアッシュビルでの教室は酷かった…。
大きな1フロアを3つの教室に分けて使ったのですが、もともと1つのフロアなのでクーラーも1機です…。なんとそのクーラーの前から隣りの教室まで太いダクト?を引いて冷気を分け合うという、ちょっと無理めな方法で夏を乗り切ろうと言うのですから(笑)。

ちなみに1期生が入学した1984年はジャンポール・ゴルチエが注目されていた年。なんとエスモード・ジャポンのアッシュビル校舎の教室にも訪問していいただきました。

そうやっているうちに校舎が出来てきます。なんとか地下のフロアだけは使えるようになると、アッシュビルからお引っ越しです。
お引っ越しはみんなで机と椅子を持って、原宿駅前から竹下通りをちょっとだけ入った所にある新築の校舎へ運びます。竹下通りを机と椅子を持った若者が、列をなして行進する姿は想像するだけでなんとも奇妙な行進だったことでしょう。

生徒はひたすら隣の喫茶店「クリスティー」と竹下口の「マック」でサボります。
私もクリスティーで「きゅうりサンド」と「アールグレイ」の紅茶を頼んで半日過ごすこともありました(笑)。だって紅茶のポットに無限にお湯を足してくれるんです…。時々頼む手作りのスコーンも美味でした。

当時のモデリストの授業では、共通のデザイン画をベースに生徒それぞれが好きなように作るという授業があります。デザイン以外は生徒が自由に、好きなように作るのです。そうすると基本デザインは一緒ですが衿の大きさやポケットのデザイン、そして素材の違いによって1枚と同じ物は出来ません。
この授業は、ニノさんが「デザイナーのデザインを変えるようなパタンナーも必要だ!」と言っていたお話しを実践で勉強するのです。
パタンナーはデザイナーに言われたデザインを作るだけではなく、デザイナーを超えた感性を持ってデザイナーと共にクリエイションする仕事ということを教えたのでしょう。

私もその様な授業を受けた様な気もしますが…。毎日クリスティーに埋もれていた気もします。

エスモード開校の頃のみどりさんは、建築家のお手伝いをした後、一級建築士の資格を取って「建築のわかるインテリアデザイナー」になるべく、建築の夜間学校に通って2年目。卒業制作にとても忙しい年です。
今度は建築士を目指すみどりさん。すごいバイタリティーです。

そんな中エスモードの仕事も始まったみどりさんは留学生の手伝いをしながら、パリ校から来たフランス人のテキスタイル担当の先生のアシスタントも行います。が、フランスから来た先生は1年契約。
1年目に来日した「Ge」先生と、2年目に来日した「Gi」先生のアシスタントを務めます。
そして3年目はついにみどりさんが一人で担当することになりました!
みどりさん曰く「乗せられた?」だそうです。笑

余談ですが1年目の終わりの頃には、1階に当時としては珍しいヴィーガンカフェがオープンします。
私も何度かランチでソイミートのパテを挟んだバーガーを食べましたが、美味しかった記憶があります。が、まだ食欲旺盛なお年頃の私は結局マックで再度ビックマックセットをオーダーすることになります。

校舎も完成し、開校前には原宿にあった「Club D」で1期生の仮装パーティー「サン・キャトリーヌ祭」を開催、いよいよ「ESMOD JAPON」は本格的に始動するのでした。

次回はいよいよ最終回です。お楽しみに!

1.サン・キャトリーヌ祭 2.みどりさん 3.ニノさん 4.みどりさんの授業の様子
MIDORI KOSEKI
小関 みどり / 元 ESMOD JAPON 講師
フランス語に興味を持ちアテネ・フランセで語学を学ぶ。旅行代理店での添乗員をする傍らテキスタイルデザインを習得し、その後渡仏。
パリで、後にESMOD JAPONを設立する仁野 覚氏と出会う。仁野氏と共にESMOD JAPONを設立に尽力。設立後、同校にてテキスタイルデザインの講師として勤務。
現在は自身の人生の軌跡をまとめながら、教え子たちの繋がりを再構築している。
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