パリの空の下、バラ色の人生
épisode 1_ 渡仏前夜
連載 Ma vie en rose sous le ciel de Paris
ILLUST / MADOKA
みどりさんは1952年、東京の武蔵野市に生まれます。
幼稚園に通う頃からお友達が多く、物怖じせず明るくフレンンドリーな少女に育ちます。
中学、高校はご両親の方針で日本屈指のお嬢様学校へ入学。ここでの高校卒業までの6年間の学生生活がみどりさんを、彩り豊かな人生へ導くことになります。
当時はまだ良妻賢母が謳われている時代でしたが、みどりさんの通う学校の校長先生は、女性の自由を尊重した進んだ考えを持つ教育熱心な先生でした。
みどりさんはバスケ部に入部。このバスケ部の練習がかなり厳しい。毎日毎日厳しい練習に耐えて鍛錬を重ねてゆきます。この練習をみどりさんは、「修行僧のようだった」と話しています(笑)。
厳しい練習で鍛錬を積み重ねたことが、後に日本を飛び出し未知の国 “FRANCE” へ向かう強い心身が作られました。
とは言ってもまだ少女のみどりちゃん。
1960年代後半、日本に続々と押し寄せる欧米の文化。音楽や映画、俳優やミュージシャンなど10代の少女にとってキラキラするものばかり。
モンキーズとアランドロンに夢中なみどりちゃんは、外国人、そして外国への興味が膨らみまくります。そんな彼女は外国への“壁”はもちあわせていませんでした。
学校を見渡せば、そこは日本屈指のお嬢様学校。帰国子女が闊歩するキャンパスではネイティブな英語が飛びかっている。
「私も外国語を喋りたい。でも英語じゃないな。フランス語だな!」
理由はフランス帰りの友人が口ずさんでいたフランスのポップス「恋は水色」。フランス語で歌われる、ロマンティクな歌声の響きにすっかり魅了されたのです。
そうして、フランス語を習得するべく、進学した大学の勉強では不十分! とフランス語をハイレベルで教える学校「Athénée Français(アテネ・フランセ)」へも入学。
学校の創立はなんと大正2年!当時フランス語を学ぶには間違いのない、ハイレベルな学校を選択するあたりに本気度が伺えます。
大学の授業が終わったあとに通っていたアテネ・フランセの校内の雰囲気は、まるでフランスにある語学学校のよう。その後、それが ESMOD JAPON の雰囲気によく似ていると思ったそうです。
この学校で学ぶ学生は、フランス文学やフランス料理を学ぶために語学を習得しに通うような、かなり意識が高い方々。
フランス語を学ぶきっかけがロマンティクな歌声だったみどりちゃんでしたが、この文化的な学校での人々との交流で、フランスでのあること、ないことを吹き込まれながらフランスへの想いが募ってゆきます。
日本の中のフランス、アテネ・フランセ で、フランスへの造詣と語学力を高めたみどりさんは、ジーンズショップでアルバイトで貯めた貯金を手に、初めてのフランス旅行へ旅立つのでした。
その旅は彼女にとって初めての海外!初めての飛行機!もちろん初めてのPARIS!!
1974年、みどりさんは22歳、8日間のパリへの旅が始まります!!
小関 みどり / 元 ESMOD JAPON 講師
フランス語に興味を持ちアテネ・フランセで語学を学ぶ。旅行代理店での添乗員をする傍らテキスタイルデザインを習得し、その後渡仏。
パリで、後にESMOD JAPONを設立する仁野 覚氏と出会う。仁野氏と共にESMOD JAPONを設立に尽力。設立後、同校にてテキスタイルデザインの講師として勤務。
現在は自身の人生の軌跡をまとめながら、教え子たちの繋がりを再構築している。