工芸品さながらの服づくり
『Gorsch(ゴーシュ)』デザイナー 鈴木 詠一
TEXT / SUU , MADOKA
PHOTO / MADOKA
昨年よりJb shopにて取り扱いをスタートしたブランド『Gorsch(ゴーシュ)』。
デザイナー鈴木 詠一氏の服への細やかなこだわりから生まれるブランドです。
2月に行われた25年AWの展示会場にて、お話を伺いました。

『Gorsch』デザイナー。
岩手県出身。外務省へ入省し、在メキシコ日本大使館、在ボリビア日本大使館へ勤務。その後ファッションの世界へ飛び込むという異色の経歴をもつ。
ロンドンへ移り住み名門「Central Saint Martins」に通うが中退し、ドイツのデザイナーズブランド「FRANK LEDER(フランク・リーダー)」にて修行を積む。ベルリン在中に自身のブランドをスタート。
現在は出身地である岩手へ制作の拠点を移す。大正時代に建てられた西洋風の建物を購入しアートギャラリーにするなど、服づくりを通した地域の活性化にも力を注いでいる。

外務省からファッションの世界へ
「岩手県内の専門学校を卒業後に、いわゆるノンキャリアと言われるスタッフとして外務省で勤務しました。」と語る鈴木氏。なかなか興味深い経歴です。
霞が関勤務から、語学研修を兼ねてメキシコへ赴任。しばらくしてボリビアへ…。彼と服づくりの関わりは、ここボリビアから始まります。
当時のボリビアは、まだまだ発展途上で田舎暮らしのよう。まだ20代だった鈴木氏は、刺激を求め暇さえあれば中南米を中心に旅行していました。そんな中に訪れた、アメリカ ニューヨーク。
「ニューヨークははキラキラしていて、歩いている人全員がカッコよく見えました。服屋も沢山あって、よく古着を買い漁っていました。」
しかしボリビアでは欲しい服は買えません。「では自分で作ってみようか」というわけです。
なんと町のテーラー屋さんに「教えて欲しい」と飛び込み、服づくりをスタート。
私は、ボリビアのテーラー屋で服づくりを学んだ日本人デザイナーを他に知りません(笑)。
New York 、そして London 、Berlin
服づくりにのめり込んでゆくうちに「これは本気でやらないと一生身につかない」と一大決心。
ここから新たな人生が動き始めます。
なんと外務省を辞め、ファッションを学ぶために大都会ニューヨークへ。「FIT」(ニューヨーク州立ファッション工科大学)を受験する準備をしていましたが、実際に住んでみると「何か違う、疲れる」と感じるように。
そこでロンドンの名門「セント・マーチン美術大学」へと目標を切り替え、ロンドンへと移ります。無事にセントマーチン大学のメンズウェア課に合格し、本格的に服づくりの勉強を始めます。
そして在学中、友人に薦められたドイツ・ベルリンのブランド「FRANK LEDER(フランク・リーダー)」の物づくりに共感し、インターンとして働くためベルリンへ向かいます。
3ヶ月のインターンが終わり一度ロンドンへ戻りましたが、進級せず「FRANK LEDER」で働きながら実践で服づくりを学びたい」と決心。フランクに相談し、学校に退学届けを出し、本格的にベルリンへと移り住みます。
一気に書き進めましたが、本当にフットワークが、軽い!まさに「思い立ったら即行動」。
一方で、腰を据えてコツコツ修行に励むという、服づくりに必要な忍耐力もる … 持って生まれた性格なのか、海外での生活で身につけた技なのか … 。
服づくりの下地
ロンドンでセントマーチン大学の準備コースに通っていた頃のお話です。
そこでの彼らの教えは「上手いことは良くない。それは誰でも練習すればできる。とにかく下手でもいいから自分を表現しなさい。」だったそうで、逆に言えば何も教えてくれない …(笑)。
しかしデッサンの授業で腑に落ちるような瞬間があったのだとか。ヌードデッサンを1秒で描く、次は5秒、10秒…と時間を区切り、最終的には10分で描くというもの。そこで初めて先生に「いいじゃないか」と褒められた時に、「そういうことか」と。それは、無心にやり続けると本質が見えてくること。
この授業が今でもターニングポイントだと思っているそうです。なんだか、わかる気がします。ハッと、見えてくる瞬間。ありますよね。
そして、「FRANK LEDER」。セントマーチンでは「服作り」というよりも「デザイン」が中心。自分の手で服を作りたかった鈴木氏は、フランクの元での実践スタイルが肌に合っていたようです。
生地を選び、それを職人を訪ねて染めてもらったり、自分で加工したり…とにかく試す。それが今の『Gorsch』の服づくりのベースとなっています。

Gorsch(ゴーシュ)のはじまり
フランクの元で学びながら、ドイツのビンテージを真似たり、型やパターンはまだまだ手探りでしたが、自身の服づくりをはじめます。
日本に帰国し、全て鈴木氏がハンドメイドで作る『Gorsch the seemster(ゴーシュ ザ シームスター)』を本格的に始動。
1年半程たった頃からまとまったオーダが入り始め、一時はかなり追い込まれた状態が続いていたそうです。そこで、鈴木氏の想いが行き届いた工場生産での新ライン『Gorsch the merry coachman(ゴーシュ ザ メリーコーチマン)』をスタートし、現在のメインラインとなっています。
ゴーシュというある仕立屋見習いの物語。
Gorsch オフィシャルサイトより引用
ある日屋根裏で見つけた古びた足踏みミシンと仕立ての道具、そして3着のジャケット。
ゴーシュは、今は亡き祖父が仕立屋だったことを知る。
祖父の仕事姿を思い描き、それは憧れに変わり、そして同じ道を歩み始めた。
腕はまだまだ未熟だが、仕立技術の向上のみならず、様々な異国に移り住み、異文化に触れ、感じたままにゴーシュらしい物作りに励む。
故郷に想いを馳せ、いつの日かその地での物作りを通して様々な国の人に”Gorsch”を楽しんでもらいたい、そんなことを想いながら、世界のどこか片隅で日々腕を磨いている。
全く縁のなかったように思えた服作り。実は祖父が仕立て屋だったことを知る…素敵なエピソードです。

『Gorsch』の服は、まるで工芸品を製作するように気持ちを込めて作られています。遊び心が溢れるディテールや、今の時代を感じるルエットも魅力のひとつ。
「作り手」として服をデザインし、パターンを引き、工場の縫い手へ気持ちをつなげて製品にする。
そうやって作られた服は凛とした空気をまとい、袖を通されることを静かに待っている。そんな雰囲気が感じられる服です。
岩手から発信する物づくり
世界中を飛び回っていた鈴木氏。帰国後は東京で活動をしていましたが、現在は故郷である岩手県に拠点を移しています。
元々ロンドンで活躍していたフランクも「地元で物づくりをしたい」とベルリンへ拠点へ移したという経緯があり、いつか自身も、原点である岩手で物づくりをしたいと考えていたそうです。
ちなみにお気づきの方もいらっしゃると思いますが、『Gorsch』というブランド名は、岩手の詩人・宮沢 賢治「セロ弾きのセロ弾きのゴーシュ」に由来するものです。

多くの土地がそうであるように、岩手にも素晴らしい自然、建築、そしてかっこいい事を実践している人達がいます。職人、農家、芸術家 …。
岩手に戻った鈴木氏はそんな人達にフォーカスを当て、彼らをイメージソースとして『Gorsch』のコレクションを製作しています。実際に生活する人、創造する人など「リアルな人に興味がある」と語ります。

そして2023年、岩手県奥州市に大正14年(1925年)に建てられた擬洋風建築に一目惚れ。取り壊しが決まっていたものの、残すべきだと強く思った鈴木氏は、取り壊しを中止してもらい、勢いで購入!またしても、素晴らしい行動力を発揮します。
その建物は、“Commune Gorsch’(ゴーシュのコミューン)”と名付けられました。

歴史を感じる、立派な建物です。
「たくさんの人に来てもらって経験、体験してもらいたい空間です。また、訪れる人同士や、地域の人達と親しく和気あいあいと交流できる場所、もしくは地域の拠点にしたいという想いを込めています。」
服づくりと改修作業に、日々勤しんでいるのだとか。


本当に素敵な建物です。地元のテレビ局に取材されたこともあり、建物の活用は地域の皆さんも喜んでおられるようです。
これは是非とも、訪れたい。詳しくは次回、岩手の訪問後に記事にしたいと思います。
Gorsch(ゴーシュ)のこれから
先述の通り、岩手からインスピレーションを得て、そして発信を続ける鈴木氏。今後は Commune Gorsch’ を通して「衣食住」の提案をしていきたいと考えているそう。
「私たちは服を着て生活をしていて、食べて、暮らしている。ひとつも欠けることが出来ない。私は“衣”しか作ることができませんが、誰かのお力を借りて’食’と’住’も合わせた『Gorsch』を提案ができたらと思っています」

鈴木氏はデザイナーというより、作家に近い印象です。
画家に例えるなら…暮らしの中の人々を見つめ、物づくりに携わるひたむきな姿はミレーのようであり …
アカデミーと反りが合わなかったり、いつも苦悩しながらも、ちょっとナルシストで遊び心もあるエゴンシーレのようでもある … と言ったら大袈裟でしょうか。
異色の経歴を持ち、さらに発展を続ける鈴木氏の作る『Gorsch』。
興味深いお話をたくさん聞かせていただいたのですが、文字数の関係でかなり省略しました。またご紹介できたらと思います。

